高江の「土人」発言、何か問題でも?

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高江を守る機動隊による「土人」発言の話題で日本中が沸騰している。

そもそも、若い機動隊員がとっさに発した言葉が「土人」であったとは不思議である。

大阪人は親しみを込めて「アホ」という言葉を頻繁に使うが、本当に怒ったら「アホ、ボケ、カス」「しばくぞ」がとっさに出る良く聞くセリフである。

それなのに売り言葉に買い言葉として「土人」が出て来たことには、とっても違和感がある。

人はインプットされた言葉しかアウトプットできないだろうから、もしかしたら機動隊が出動するような現場では日常的に飛び交っている言葉なのかもしれない。

「土人」は僕たちの日常生活では使わないであろう言葉だからだ。

そう考えると、この若い機動隊員が発した「土人」という言葉には、嫌悪の思いは込められていても、沖縄県民への差別意識があったかどうかははなはだ疑問である。

多くの保守論客たちの意見は、「土人」発言自体はよろしくないけれども、という論調だ。

僕はあえてこの発言自体を激しく擁護してみたい。

そもそも土人という言葉は「土着の人」という意味で、そこに差別意識はない。

ウィキペディアによると、「土着の人」という意味に「未開性を意味する表現が掲載された」のは1973年の広辞林からだそうだ。

つまり、土人という言葉に「差別意識」の意味づけがされたのは近年のことなのだ。

では、いったい誰がそんな意味づけをしたのだろうか?

沖縄警視庁機動隊土人発言

引用:Youtube

単なる言葉に差別を感じる人はどんな人なのか?

そもそも差別語というのは法で規制されているものではなく、マスコミの自主規制のようだ。

沖縄県民の思い込みのひとつに「沖縄県民はずっと差別され続けて来た」というものがある。

仮にこのような歴史観のことを被差別史観と呼んでみよう。

沖縄県民の中にある被差別史観の正体はいったい何なのだろうか?

 

僕は沖縄県で生まれ、父の転勤で福岡、佐賀で小中高校を過ごした。

その時、初めて県外の人と遭遇した。

僕は差別されることもなく、逆に沖縄出身とチヤホヤされるほど歓迎された。

本土の人たちは僕にとてもとても優しかったのだ。

県外に一度でも出たことがある沖縄県人は同じ感覚を持つようだ。

だから、沖縄から一歩も外に出たことがない連中が訴える被差別意識にはとても違和感がある。

そもそも、僕の中に差別という概念が全くなかったので、差別をされていたかもしれないが、差別とは思わなかったのかもしれない。

そう考えると、自分の中に差別意識が存在する人間にしか差別されたという思いは残らないはずだ。

つまり、誤解を恐れずに言えば、差別は差別主義者にしか感じ得ない感情なのかもしれない。

 

僕の妹が担任の先生から「本土で沖縄人という理由で住居を貸してもらえなかった」と憤慨した話を何度も聞かされたそうだ。

先生は差別されたと感じたようだ。

しかし、実際には本土の人も沖縄で住居を借りるのは難しいそうだ。

家主も慈善事業ではないので商売上のリスクを考えるだろう。

何かあった時に遠い沖縄の地まで家賃徴収に出かけることを考えると躊躇する気持ちはよく理解できる。

だから、これは差別などではなく単なる与信の問題なのだ。

もしかしたら先人たちが家賃を踏み倒した歴史があるのかもしれない。

これを差別と結びつけるのはどうなんだろうか?

 

そもそも差別は何を持って差別とするのだろうか?

前述の通り、法的規制はなくマスコミの自主規制。

ヘイトスピーチが最近法制化されたが、どこまでをヘイトとするのか明確な線引きがない。

そうなると、法律ではなく、誰か特定の人間が差別の定義を決めるのだ。

この状態は法治国家としてはいかがなものだろうか?

それに、僕は実際の差別と差別語は分けて考えた方がいいと思う。

実際の差別とは、他人との違いを強調されることにより不利益を被る場合。

人種差別や民族差別により虐殺や弾圧を受ける、あるいは給与待遇が変わるなど、具体的な不利益を被った場合は実際の差別と言えよう。

これはやってはいけない行為であり、条約でも禁止されているはずだ。

一方、差別語はどうだろう?

僕は言葉自体に罪はないと思っている。

乞食 → ルンペン → ホームレス

かたわ → 障害者 → 障がい者

など、これらの言葉は差別語のレッテルを貼られ、言いかえられて来た言葉の屍たちだ。

言葉自体を言いかえているだけで、本質は何も変わっていない気がするのは僕だけだろうか?

これらの言葉は差別と感じた人からのクレームにより差別語として葬り去られたようだ。

つまり、差別語と認定したのは被差別者側だと言えよう。

ここがポイントである。

 

日本は人種差別撤廃に大きな功績を残した国

歴史を振り返ると戦前まで、世界では白人による人種差別が猛威を振るっていた。

人種差別による植民地支配が大虐殺を生み、奴隷を生んだ。

白人の差別意識は、有色人種を人とみなさなかった。

これら人種差別に基づく植民地政策に対して、昂然と立ち向かったのが日本国である。

日本だけが人種差別に異議を唱えたのだ。

国連(当時は国際連盟)に人種差別撤廃法案を提出し、拒否権を発動され却下された。

それでも人種差別に異議を唱えるために国連を脱退し、戦争が起きた。

そう、本来、日本人は差別をしない国民性を持ち合わせているのだ。

 

江戸時代は士農工商という階級社会だったと、僕たちは習った。

でも、最近の研究では、これらは単なる職能分類だったことが判明している。

この事実は何でも階級闘争史にしたがる左派史観が教育界にいかに浸透しているかを物語っている。

ともあれ、日本には歴史的に階級社会などは存在していなかったのだ。

日本は天皇陛下がしろすめす国。

天皇陛下以外の民は、天皇の臣民としてみんな平等という国家であるのだ。

そのうえ、日本では人は死ぬとすべての人が神や仏に昇華される。

死後の世界は平等であり、そこには差別意識のかけらもない。

大東亜戦争では日本は敗戦したが、「人種差別は悪いことだ」という認識が世界に急速に広がった。

そのうえ、欧米の植民地が次々と独立し、人種差別による植民地政策は崩壊した。

日本は敗戦しながらも世界史に歴然と輝く奇跡的な大偉業を成し遂げたのだ。

それは日本が差別と闘ったが故の功績なのだ。

欧米の価値観の基本にあるキリスト教には天国と地獄があり、死後は階級社会の真っ只中に放り込まれる。

生前にいい行いをしないと地獄に落ちると脅し、いい人間になるように仕向けるのだろう。

しかし、その階級の外に牛や豚と同等の扱いで有色人種を置き、差別して来た。

つまり、差別意識というのは欧米の文化であり、日本は欧米化により余計な概念を輸入してしまったのだ。

本来の日本人には差別という概念すら存在しないはずだ。

そう考えると、美しい日本語に差別語のレッテルを貼ってきたのは、いったい誰なのだろうか。

賛否があることを承知の上で言えば、僕は単なる言葉に差別の意味を与えて来たのは、差別主義者の仕業だと思っている。

単なる言葉に差別を感じる人は、差別という概念を強烈に持っているとしか思えないのだ。

ある言葉を差別語として認定するのは、先述の通り、その言葉を発した人間ではなく、法律でもなく、あくまでも差別されたと感じた側の主観である。

これはつまり、差別主義者は被差別者の仮面を覆って差別を非難する。ということなのだ。

繰り返すが「差別された」という感覚は、自身が差別という概念を所有していないと持ちえないのだ。

 

差別を助長してきたのは被差別側の人間

「土人」という言葉に差別語というレッテルが加わった1973年は左翼史観が主流の時代。

ネットが出現するまで、マスコミによる言葉狩りがひどかった記憶がある。

マスコミの糾弾により、いったい何人の大臣たちが言葉狩りにより辞職をしていったか。

言論の自由に敏感なはずのマスコミが率先して言論弾圧をしていたようにしか僕には見えなかった。

日本社会の左傾化が浸透するにつれ、差別語のレッテル貼りが増えていったのは偶然の一致ではないだろう。

 

沖縄では農家の人を畑人(ハルサー)とよび、漁師を海人(ウミンチュ)、島に住む人を島人(シマンチュ)と呼ぶ。

土地に根付いている人を土人と呼ぶことと、どう違うのだろうか。

沖縄人という言葉も差別語らしい。

大阪の人は自らを親しみを込めて大阪人、関西人と呼ぶ。

何が違うのだろうか?

ウチナーンチュは標準語に直訳すると「沖縄人」となるはずなのに、自らをウチナーンチュ、県外の人をヤマトンチュ、あるいはナイチャーと区別して呼ぶことには差別を叫ばないのだろうか?

 

僕は僕自身がウチナーンチュであるために余計に残念に思うが、ウチナーンチュは元来、強烈な差別意識を持ち合わせているのだろうと思う。

歴史的にも沖縄本島に住んでいた人たちは、離島を差別し、重税を課して来た。

宮古島には今でもかつて課せられていた過酷な人頭税を忘れないために、人頭税石が今でも残されている。

終戦直後には、職がなく移住してきた奄美大島出身者たちを、明確な給与待遇に差をつけて差別してきた恥ずべき歴史がある。

残念ながら、沖縄県人は差別主義者が多いようだ。

もちろんすべての沖縄県人がそうだというわけではない。

差別主義の裏には劣等感が潜んでいるように思える。

劣等感の塊のような沖縄県人が差別主義者となっているのだろう。

だからこそ、被差別意識が高いのではないだろうか。

だからこそ、被差別史観の刷り込みが浸透したのではないだろうか。

 

差別撤廃を叫び、利権を獲得するマッチポンプ

被差別意識は、現代では相当に利権化されてしまっている。

同和問題しかり、在日問題しかりである。

沖縄も同じ構造である。

被差別者が逆差別をおこない、特権を守るために差別撤廃を叫び続けている。

どうやら彼らは人権、人権とうるさい人たちと同根のようである。

男女差別、男女同権を叫び、ついには内閣府に男女共同参画局という拠点まで作ったジェンダーフリー信奉者たち。

彼らが使う予算はなんと、10兆円にも達しているという話ではないか。(2005年度予算、「現代史の虚実」秦郁彦著・文芸春秋より)

▼一番新しい予算データで約7兆8千億円である。
http://www.gender.go.jp/about_danjo/yosan/pdf/28yosan-overview.pdf

 

日本がこれほどに危機的状況にある中での防衛予算の倍近くも使っているのだ。

想像してみてほしい。

自衛官は陸海空あわせて約22万7千人の体制である(2016.3.31現在、防衛省・自衛隊サイトより)

これらの人件費はもちろん、防衛装備品、訓練費用、海上警備に航空警備、もろもろ膨大なお金がかかっているイメージだ。

その倍の予算を使って男女共同参画局はいったい何をしているのだろう。

省庁でもない単なる内閣府の一機関が、防衛省予算の倍ほどの予算は本当に必要なのだろうか?

そんなに税金をいったい何に使っているのか?

上の予算資料をみる限りでは、DV対策など必要と思われる予算もありそうだが、何に使うのかさっぱりわからない予算が多い。

女性の社会進出の支援のために、男女共同参画局からの支援を受けた経験がある女性の話は聞いたことがない。

おられたら教えてほしい。

10兆円は、いったいどこに消えているのか?

10兆円というのは国だけの予算であり、それぞれの地公公共団体もそれぞれに男女共同参画にお金を出している。

主は男女共同参画センターなど箱モノをたくさん作り、組織を作り、山ほど人件費を消費しているのだろう。

人権、差別を叫ぶと利権にありつけるようなのだ。

これは既に巨大なマッチポンプとなっており、米軍基地反対を叫ぶほど、利権につながる沖縄の構造とそっくりである。

 

男女差別はなくさねばならないことかもしれない。

でも、僕は男女は全く違った役割を持って、この世界に生まれて来たはずなので、正直、区別も必要だろうと思っている。

男はひっくり返っても女性のように子供を生むことはできない。

女はひっくり返っても男のような力を出すことはできない。

女が子を生み、力を与えられた男がそれを守るのは、それぞれに役割を与えた天の差配ではないのだろうか?

男女を何が何でも同権にするという発想には、だから違和感を感じるのだ。

 

教育現場では男女混合名簿が作られ、同室宿泊、騎馬戦やランドセル、トイレ標識の色分け禁止、過激な性教育が話題となり、ジェンダーフリー=フリーセックスかと反問する人も出てきて、父母からの苦情が続出した(前出「現代史の虚実」より引用)

「男女」も言葉の並びは差別的なので「女男」と言わなければならない。んな、アホな。

ここでも言葉狩りが行われているのだ。

夫婦別姓や戸籍をなくすことは世界の潮流だとか、彼らの主張は本当に日本社会の進歩につながっているのだろうか?

僕には逆に日本社会の良き伝統がどんどん破壊されているような気がしてならない。

家庭という、子供が育っていく中で社会生活の基礎となる生活基盤で、ちゃんとした躾がされない。

だから急に学校という社会に出された子供は戸惑い、うまく適応できない子供が出てきたり、差別意識が逆に助長され、陰湿ないじめや引きこもりが増えていく。

 

戦前より昔の日本の子供たちの姿が、よくドラマに出てくる。

それはそれは賢くて、礼儀正しくて、よく躾けられていて、観ていて気持ちがいい。

こうした健全な子供たちが失われているのに、果たして社会は進歩していると言えるのだろうか?

 

そう考えると果たして僕たちの血税は生きた金として使われているのだろうか?

社会活動や社会運動という名のもとに、社会破壊活動が行われてはいるのではないだろうか?

国は社会破壊活動に税金を投入し続ける愚挙をもうやめなければならない。

 

中国が脅威になるまで中国に援助を与えて来たのは日本国である。

僕には日本国が自ら破滅の道を行くことを選んでしまっているように見えて仕方がない。

日本が破壊されてゆくのを喜ぶ勢力が、日本社会に相当浸透しているということだろう。

同和、在日、人権、差別、これら異論をとなえることに躊躇するようなデリケートな問題、反戦、反原発、反核など誰もが異議をとなえにくいスローガンにこそ、注意しなければならない。

日本社会は戦後長い時間をかけて、これら左派ウィルスに感染してきたのだ。

これらウィルスは日本社会のいたるところに、行政、政府にまで浸透している。

もし、僕の話に違和感を感じる人がいたら、もしかしたら、あなたもそのウィルスに感染しているのかもしれない。

 

日本は世界で一番長い歴史を持つ国である。

100%無私の心で君臨し、世界最長の家系を背景とした天皇陛下という珠玉の存在を長に抱いている世界で唯一の国である。

戦国時代を除いて大きな内乱を回避して来た平和国家である。

もう海外にモデルを求めるのは辞めよう。

日本モデルこそが世界一なのだ。

 

少し本題と話が離れていってしまった。話を戻そう。

これまでの検証のように「土人」という言葉自体には罪がなく、人権、差別を叫ぶ特定勢力、そしてマスコミが差別語のレッテルを貼ってきたことが理解できよう。

ちょっとした言葉に差別されたと感じる人は差別主義者であり、その裏返しには劣等感が存在するのだろう。

彼らに少しでも自尊心があれば、単なる言葉にそのような意義づけなどせず、聞き流せるハズだ。

 

ともかく、今回の件は現場での単なる売り言葉、買い言葉レベルのやりとりを、沖縄が差別されたと結びつけて論じる沖縄メディアを始めとする左派メディアは、小学生のケンカに口を出す親以上に低レベルであると感じざるを得ない。

親(沖縄メディア)なら自分の息子たち(高江の過激派)をかばう気持ちもわかるが、自分の息子がバカ息子であり、仕掛けた方は自分の息子であり、世間様に迷惑をかけているのは自分の息子であるという事実も直視し、向き合ってほしいものである。

左派勢力により奪われた「土人」を始めとした美しい日本語の復権も僕たちはおこなわなければならないだろう。

何はともあれ、真摯に仕事に向き合っている機動隊員諸君、防衛局職員諸君には心からエールを送りたい。







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