書き換えられた沖縄戦の歴史

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先日、陸上自衛隊那覇駐屯地を訪問させて頂いた。

第15旅団の知人の広報担当官の案内で駐屯地内を車で移動。

広報資料館は「鎮守の館」と名付けられている。

【「鎮守の館」は土地の住民を護る髪、それを祀る神社、兵士を駐留させて地域を守る、先の大戦で戦禍と散った英霊鎮魂の館という意味が込められています。】

(第15旅団ホームページより引用)

最初に見学したのが不発弾処理の状況。

 

毎日出動で事故ゼロの不発弾処理隊

沖縄県内には無数の不発弾が眠っているそうだ。

もちろん先の沖縄戦における不発弾である。

米軍のも日本軍のも双方とも眠っているそうだ。

こちらの展示室には実際の不発弾が展示されていた。

正直、これほどどでかい不発弾はイメージできていなかった。

このでかいのは軍艦から発射された艦砲射撃の砲弾だそうだ。

沖縄タイムスによって鉄の暴風と表現された地形が変わるほどの艦砲射撃のすさまじさが想像される。

こんなでかい砲弾が沖縄の西海岸から雨あられのように降り注がれたのだ。

当時の沖縄県民の、兵士の恐怖が想像される。

 

不発弾処理 沖縄

不発弾処理 沖縄 第15旅団

不発弾処理 沖縄

不発弾処理 沖縄

 

第15旅団の不発弾処理隊は沖縄全県が守備範囲で、かなり頻繁に出動しているようだ。

最近は八重山日報さんがしっかり報道してくれるが、沖縄2紙があまり報じないので、彼らの活躍があまり目につかないし、県民も知らない人が多いことだろう。

ただ、たまに不発弾処理のために高速道路が不通になったりするので、あちこちで不発弾が出ているという認識は持っていた。

誇るべきはこれだけ頻繁に出動している不発弾処理隊なのだが、不発弾処理段階での事故は昭和47年つまり祖国復帰後の部隊創設以来35000回以上の出動でゼロだそうだ。

45年間で35000件の処理ということは、年間平均約777件処理となると一日平均2回は出動していることになる。

そう、不発弾処理隊は毎日のように出動しているのだ。

これは驚くべき数字だ。

そのうえで事故ゼロというのは素晴らしい実績であろう。

これにより安倍首相から表彰も受けている。

不発弾処理 沖縄 首相表彰

不発弾処理件数 沖縄

 

9000回を超えた緊急患者空輸

沖縄県のような多数の離島を抱える県では、離島で発生した緊急患者輸送は大きな課題である。

第15旅団所属の第15ヘリコプター隊は沖縄県内はもちろん、鹿児島県の奄美諸島も守備範囲となっており、広範囲の空輸を実施ている。

そして、この緊急患者空輸も復帰以来9000回を越えた。

45年間で9000回と言うと2日に1回は出動している計算になる。

これもすごい数だ。

緊急患者空輸

緊急患者空輸

 

9000回を突破し、いの一番に感謝状を贈呈したのが鹿児島県知事だったそうだ。

鹿児島県知事と言えば、元キャスターで反原発を掲げて当選した革新系知事。

感謝状に記念品まで感謝の思いが込めれているのが感じられる。

緊急患者空輸

緊急患者空輸の鹿児島県から表彰

 

一方、我らが沖縄県知事は鹿児島県知事が表彰したのを見て、慌てて表彰をしたようだ。

翁長知事は保守系知事のはずなのに、辺野古移設反対以外にはあまり関心がないご様子。

県民の安全と命を守る責務を果たしてほしいものだ。

緊急患者空輸への感謝状

 

※緊急患者輸送の件は那覇市医師会が取材し、会報に詳しく掲載されていますので、リンクを貼っておきます。

是非ともこちらをご参照ください。

那覇市医師会報

那覇市医師会報 春季号(第45巻・第2号) 平成29年

 

 

沖縄戦のジオラマ

広報資料館の奥に沖縄戦のジオラマがあった。

沖縄本島の読谷以南の地図が立体化され、丘などの地形がひとめで把握できる構造になっていた。

沖縄戦ジオラマ

 

それだけではなく、米軍の侵攻とそれに対する日本軍の防衛の動きがLEDランプによって表現され、文献ではイメージできない沖縄戦が見事に再現されていたのだ。

米軍が上陸した嘉手納海岸は南北に長く、日本軍が防衛するにはあまりに防衛線が長すぎたようだ。

現在の嘉手納海岸は米軍嘉手納基地で覆われ、その全貌が見えなくなっている。

だから僕は嘉手納上陸と聞いてはいたが、比謝川あたりの狭い領域から上陸したのかと勝手に考えていた。

このジオラマで嘉手納海岸が相当広い地域に広がっていることがわかり、米軍が上陸地点に嘉手納を選んだ理由が手に取るように理解できた。

他の海岸線では狭すぎたり、海岸からすぐのところに断崖絶壁があったり、上陸には適さないことも理解ができた。

日本軍が米軍上陸阻止に動かず、上陸後に迎え撃った理由もわかった。

それだけ嘉手納海岸線が長すぎて上陸阻止するのは困難だったのだ。

そして、もうひとつ重要なことがわかったのだが、それが「沖縄戦の記録が書き換えられた」と言う話だ。

当時、沖縄戦最後の激戦地が糸満市南部と言われている。

米軍の最高司令官バックナー中将が戦死したことでもその激戦ぶりが理解できよう。

そして、喜屋武半島の南端で起きたのが沖縄戦で象徴される日本兵と住民とのトラブルの話である。

沖縄戦を研究している広報担当官の説明によると、沖縄南部の八重瀬あたりのラインで日本軍はほぼ全滅しており、南部激戦地まで退却し残っていたのはほとんど職員など後方支援スタッフ、あるいは幕僚などの地位の高い兵たち。

幕僚などは一般人と壕が一緒ではなかったし、日本兵が一般人に対し「壕から出ていけ」「赤ん坊がうるさい」などのよく語られている体験は起こりえなかったのではないかという話だ。

仮にもし、そういうことがあったとしても一部の兵士の行為であり、日本兵が組織的に行った事実はないだろう。ということだ。

沖縄の図書館を覗くと、沖縄戦に関する本のほとんどすべてに住民が日本兵から受けた被害の話が登場する。

その証言は3~4つのステレオタイプであり、まるで沖縄戦を体験した全住民がそのような体験をしたかのように語られている。

僕自身、こうしたステレオタイプの体験談には違和感を覚えていたので非常に納得できる話であった。

そして、驚いたことに沖縄戦の戦跡に掲げられいる石碑などの文言が祖国復帰前ぐらいから随時書き換えられていったということらしい。

この話は僕には初耳だった。

沖縄戦直後には各戦跡には日本兵の健闘を称える碑が各地で建てられたそうだ。

そして、各地にある日本全国の県単位の慰霊碑などは、地元沖縄県民が建てたらしいのだ。

日本兵の被害を受けたことが事実なら、日本兵の検討を称える碑を県民が建てることはないだろう。

やはり、日本兵も県民も一体となって沖縄戦を戦ったことが史実なのだろう。

沖縄戦の歴史的評価は復帰を前に書き換えられたのだ。

沖縄戦の意図的に誤った解釈により日本と沖縄の分断が図られてきたのだとすれば、この沖縄戦の再評価が急務だろう。

僕はもう少し沖縄戦について調べる必要性を感じて、那覇駐屯地を後にした。

陸自那覇駐屯地









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